「老猫の介護」という言葉を聞くと、どのような風景を思い浮かべますか? つきっきりの看病、数時間おきの給餌、下の世話……。 そんな大変な日々を想像して、「私に務まるだろうか」「仕事をしながらできるだろうか」と、不安を感じている方も多いのではないでしょうか。
獣医師である私の自宅には、17歳になる猫がいます。 人間の年齢に換算すれば80代半ば。かつてのように部屋中を駆け回ることはなくなり、一日の大半をベッドの上で過ごしています。 職業柄、老猫のケアについては知識として持っていました。しかし、実際に自分の愛猫が老いていく姿を目の当たりにすると、教科書通りにはいかないことばかりだと痛感します。
「これをしなきゃ」「あれもしなきゃ」と気負う必要はありません。 老猫の介護とは、特別な医療行為を家庭で行うことではなく、「愛猫が自分一人ではできなくなったことを、少しだけ手伝ってあげること」だからです。
この記事では、私が日々愛猫と暮らす中で実践している「やってよかったこと」と、逆に「やらなくてよかったこと(無理しなくていいこと)」について、獣医師としての視点も交えながらお話しします。 肩の力を抜いて、今の生活に取り入れられそうなヒントを探してみてください。
老猫の介護で基本となる考え方
具体的なケアの話に入る前に、一つだけ大切な心の持ち方について共有させてください。 それは、介護の目的を「治すこと」から「快適に過ごすこと」へシフトするということです。
若い頃のケアは、病気を治療し、元の元気な状態に戻すことがゴールでした。 しかし、15歳、17歳と年齢を重ねた猫たちにとって、「老い」は病気ではなく自然な変化です。これを止めることは誰にもできません。
ですから、私は今の愛猫に対して「1日でも長く生きてほしい」という願い以上に、「今日1日、痛みや不快感がなく、機嫌よく過ごしてほしい」という気持ちを優先しています。
「今日はご飯を美味しそうに食べた」 「日向ぼっこをして気持ちよさそうに寝ている」 「撫でたらゴロゴロと喉を鳴らした」
老猫の介護では、こうした「快」の瞬間を一つでも多く作ってあげることが最大の目的です。 「完璧な管理」を目指すのではなく、「愛猫が心地よいと感じるサポート」を目指す。 そう考えると、やるべきことが少しシンプルに見えてきませんか?
毎日の生活でできること
では、具体的に日常の中でどのようなサポートができるのか、私が実践していることを中心にご紹介します。これらはすべて「必須」ではありません。愛猫の様子を見て、必要そうなものだけ取り入れてみてください。
1. 「食べること」のサポート
高齢になると、首を下げて食べる姿勢が辛くなったり、嗅覚が衰えて食欲が落ちたりします。

- 食器の高さを上げる 首を曲げずに食べられるよう、食器の下に台を置いて高さを出しました。これだけで、食べこぼしが減り、飲み込みもスムーズになったようです。100円ショップの台や、空き箱で十分代用できます。
- フードを温める 食いつきが悪いときは、ウェットフードを電子レンジで数秒温めて、香りを立たせます。「鼻」で食事を楽しむ猫にとって、香りは何よりの食欲増進剤です。
- 「好きなもの」優先でOK 栄養バランスも大切ですが、食べてくれることが最優先です。「総合栄養食でなきゃダメ」と縛られすぎず、その子が喜んで食べるものをトッピングするなど、食事の時間を楽しみにしてあげる工夫をしています。
2. 「動くこと」のサポート
足腰が弱り、関節が痛むことも増えてきます。家の中の「小さなバリア」を取り除いてあげましょう。
- スロープやステップの設置 お気に入りのソファやベッドに登るのをためらうようになったら、踏み台(ステップ)やスロープを設置します。私はクッションを階段状に置いていますが、それだけでも愛猫の「登りたい」という意欲を支えることができます。
- 床の滑り止め フローリングは、乾いた老猫の肉球にはスケートリンクのように滑ります。関節への負担を減らすため、よく歩く動線にはヨガマットやカーペットを敷いています。踏ん張りが効くと、歩くこと自体が億劫にならずに済みます。
- 寝床の温度管理 筋肉量が減ると寒さを感じやすくなります。冬場はペット用ヒーターや湯たんぽを用意し、夏場もエアコンの風が直接当たらないような隠れ家を作っています。
3. 「身だしなみ」のサポート
猫にとって毛づくろい(グルーミング)は生活の基本ですが、体が硬くなると背中やお尻まで舌が届かなくなります。
- 蒸しタオルで体を拭く ブラッシングの後に、硬く絞った温かい蒸しタオルで全身を拭いてあげます。これが本当に気持ちよさそうで、愛猫のお気に入りの時間になっています。目やにや口周りの汚れも、こまめに拭き取ってあげると清潔感を保てます。
- 爪切りのチェック 爪とぎの回数が減ると、爪が太く巻き爪になり、肉球に刺さってしまうことがあります。2〜3週間に一度は肉球チェックを行い、先端を少し切ってあげるようにしています。
4. 「排泄」のサポート
トイレの失敗は、老猫介護で多くの飼い主さんが直面する悩みです。
- トイレのバリアフリー化 トイレの縁が高いと、またぐのが辛くて手前でしてしまいがちです。入り口が低いトイレに変えるか、手前にスロープを作ってあげます。
- トイレの数を増やす 尿意を感じてからトイレにたどり着くまでの時間が短くなります。生活スペースの近くにトイレを増設することで、失敗を防げることがあります。
無理にしなくていいこと
介護において、「何をするか」と同じくらい大切なのが「何をしないか(何をやめるか)」です。 良かれと思ってやっていることが、実はお互いのストレスになっていることもあります。私が意識的に「頑張らない」と決めていることを挙げます。
1. 嫌がることの無理強い
これが最も重要です。どんなに体に良いことでも、愛猫が全力で拒否し、恐怖で震えてしまうようなら、私は「やめる」という選択肢を検討します。
例えば、毎日の投薬。 薬を飲ませようとすると泡を吹いてパニックになる、その後数時間は隠れて出てこない……といった状況であれば、獣医師に相談します。 「注射薬に変えられないか」「回数を減らせないか」「美味しいものに混ぜてもいいか」。 治療効果と、猫の精神的な平穏(QOL)。天秤にかけたとき、老猫介護では後者を優先する場面があってもいいと私は考えます。
2. 完璧な栄養管理
「療法食を食べさせなければ病気が悪化する」 そう頭では分かっていても、全く食べずに痩せていくなら本末転倒です。 私の愛猫も腎臓の数値が気になりますが、療法食を嫌がるときは、普通の美味しいフードをあげています。 「これを食べたら寿命が縮まるかもしれない」と怯えるより、「これを食べて満足そうにしている」という今の幸せを大切にしたいからです。
3. 完璧な清潔さ
排泄の失敗や吐き戻しは、老猫との暮らしでは日常茶飯事です。 「部屋を常にピカピカにしなきゃ」と思うと、汚されたときにイライラしてしまいます。 「汚れてもいいようにペットシーツを敷き詰めよう」「多少の匂いは仕方ない」と割り切ることで、心に余裕が生まれました。 猫も、飼い主さんがイライラしながら掃除している背中を見るより、多少散らかっていても笑顔でいてくれる方が安心するはずです。
4. 24時間の見守り
「留守中に何かあったらどうしよう」と心配で外出できなくなる気持ち、痛いほど分かります。 ですが、飼い主さんにも自分の人生があり、休息が必要です。 「見守りカメラを置いたから大丈夫」「今日はシッターさんにお願いしたから大丈夫」と自分に言い聞かせ、自分のための時間も大切にしてください。あなたがリフレッシュして帰ってくることは、結果的に質の高い介護につながります。
もし「これもあれもやらなきゃ」と感じて疲れてしまったら、一度立ち止まっても大丈夫です。
老猫の介護に疲れたと感じたときの気持ちの整理について、別の記事で詳しく書いています。
👉 老猫の介護に疲れたと感じたら

獣医師として注意しているポイント
「無理はしない」と言いましたが、獣医師として「ここだけは気をつけて見てあげてほしい」というポイントがいくつかあります。 これらは、猫が苦痛を感じているサインを見逃さないためのチェックポイントです。
1. 「痛み」のサイン
猫は痛みを隠す天才です。「痛い」と鳴くことはほとんどありません。 その代わり、以下のような行動でサインを出します。
- じっとうずくまって動かない
- 触ろうとすると怒る、逃げる
- トイレの縁に足をかけられない
- グルーミングをしなくなる(毛割れができる)
- 表情が険しい、ひげが下がっている
「年だから動かない」のではなく「痛くて動けない」のかもしれません。痛みを取り除いてあげる(鎮痛剤を使うなど)だけで、驚くほど元気になる子もいます。これらのサインがあれば、一度動物病院で相談してみてください。
2. 脱水のチェック
高齢猫は脱水しやすい傾向にあります。 背中の皮膚を優しくつまんで持ち上げ、パッと離してみてください。すぐに戻れば大丈夫ですが、テントのように形が残ってゆっくり戻る場合は、脱水している可能性があります。 また、歯茎が乾いてネバネバしているのも脱水のサインです。 水分補給の工夫が必要か、点滴が必要かの判断材料になります。
3. 呼吸の変化
リラックスして寝ている時の呼吸数を数えてみてください。 1分間に40回以上呼吸している、あるいは以前より明らかに早くなっている、お腹を大きく動かして息をしている場合は、心臓や肺に負担がかかっている可能性があります。 これは緊急性が高いサインなので、「様子を見よう」とせずに早めの受診をおすすめします。
4. 急激な体重減少
緩やかな体重減少は老化に伴うものですが、1ヶ月で体重の5%以上(4kgの猫なら200g以上)減るような急激な変化は、何か病気が隠れているサインかもしれません。 抱っこした時の「軽くなったな」という感覚を大切にしてください。
介護は「できる範囲」でいい
ここまで色々と書きましたが、すべてを完璧にこなす必要は全くありません。
老猫の介護は、短距離走ではなく、ゴールの見えないマラソンです。 全力疾走すれば、すぐに息切れして倒れてしまいます。 時には歩いたり、立ち止まったり、誰かに助けを求めたりしながら、ゆっくりと進んでいけばいいのです。
私が17歳の愛猫の介護を通して学んだこと。 それは、「飼い主の笑顔こそが、猫にとって最高の特効薬」だということです。
どんなに高価なサプリメントよりも、どんなに清潔な部屋よりも、大好きなあなたが笑顔で名前を呼んでくれ、優しく撫でてくれること。 それが、不安な老後を過ごす猫にとって、何よりの安心材料になります。
もし、介護に疲れて「もう嫌だ」と思ってしまったら、それはあなたが十分に頑張りすぎている証拠です。 そんな時は、「今日は何もしない」と決めて、ただ猫の隣で一緒に昼寝をしてください。 手抜きではありません。それもまた、互いの温もりを感じる大切な「介護」の時間です。

「してあげられなかったこと」を数えて自分を責めるのはやめましょう。 「してあげられたこと」を数えて、今日無事に過ごせたことに感謝する。
そんな穏やかな気持ちで、愛しい老猫との残された時間を、ゆっくりと味わっていってください。 あなたの優しさは、必ずその子に伝わっています。

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